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熱血パーサー乗務録 連載終了

VOL1.プロローグ

◆生い立ちから入社まで

 九州の戸数わずか20戸、人口100人足らずの山奥の小さな村で育ち、そこから町の高校まで通っていた。

小学校3年生の時に初めて、夜の7時から9時迄電気が使えるようになったが、それまではランプの生活であった。

早朝起床すると、先ず室内と土間の掃除、鶏、ウサギ、ヤギ、牛の餌をやり終えて2Kmを走って小学校に通っていた。

中学は8Kmを自転車で通い、高校は15Kmをバスで通った。
小学校から高校迄、帰宅すると家畜の世話や農作業を手伝い、日曜日はもっぱら山仕事に従事する毎日であった。
大学受験で福岡という都会に出て、そこで初めて行き交う人と車の多さに驚き、交差点の信号機も見た。

高校迄、私は「こんな田舎の生活は嫌だ、外の世界に出たい!」と常に思い続けていた。
10年余り前に流行った「オラ東京さ行くだ」の歌そのものの生活だったのだから、あの歌には共感を覚えたのである。
父親は海軍の軍人であったが、運良くレイテ海戦で負傷して捕虜になり無事帰国して、45歳で結婚し、私が誕生したのですが、負傷した傷が悪化し、私の1歳の誕生日の前日に死亡。
従って、私にとって父親の記憶はゼロである。父の姉の嫁ぎ先である山奥に養子となり、そこで育成してもらった。
母は何故か一人息子の私を育てることを放棄したのである。この体験が私にとってイビツな生き方に影響を与えることになったのだと思われる。
幼少の頃から義父母には従順であるべきとの思いがあり、農作業や山仕事の手伝いは良く手伝った。

高校時代に当時は「西洋かぶれ」と言われていた同級生の町医者の子供がいて、彼から外国、特に欧米諸国の話を聞かされ、外国にほのかな憧れを抱いていた。特に彼の家で聴かせてもらったイブ・モンタンのシャンソンに西洋文化の香がして、フランスという国に行ってみたいと思った。
高校3年の時に義父が希望していた弁護士か外交官(可能性は低いのに)から商社マンに職業選択して、英語は誰でも話すので、フランス語を習得すべく、福岡にあるフランス人教師のいた私立大学に入学した。
私はフランス語同好会と空手部に入会して、青春を謳歌していた時期でもありました。フォークソングが流行し始めた頃でもあり、ギターを弾き始め、シンガーソングライターを気取っていたのもこの頃でした。
当時の仲間でプロとしてデビューしたのが財津君を中心としたグループの「チューリップ」です。

大学3年から学生運動が盛んになり、九州で最高学府の国立K大法学部にいた高校時代の親友が学生運動のリーダーをしていたこともあり、私も学生運動にのめり込んでいった。
九州佐世保に米国の原子力艦エンタープライズが入港した時に、私も反米デモに参加して、機動隊とぶつかり、その間、ヘルメットやアノラックに機動隊の装甲車から放水された塗料が付着していたので、佐世保商店街のアーケードで、逮捕された。取調べで執拗な拷問(指の間に鉛筆を挟み締め上げる)にも鳴かなかった(白状しなかった)ので、3日後には釈放された。その後、再度逮捕されたが、前回と同様、拷問にも耐えて黙秘を続けたので、結局取り調べを担当していた主任警部補のK氏も諦めて、と言うよりリーダー格ではなかったので、釈放してくれたのです。

*このK氏とは、その後、彼が警察庁からの出向で亜東協会(領事館)に勤めていた時に、台湾で奇遇にも再会すること になるのですが。

当時、昼間は我々学生は機動隊とゲバ棒と警棒で殴りあうのですが、相手はプロで身体もデカクてまともにぶつかったら勝負にならないのですが、報道陣が周囲にいるので、機動隊の連中も手加減するのです。しかし我々は徐々に追い詰められて佐世保商店街のアーケードに逃げ込むのです。

商店街の人達は我々に好意的で、我々が逃げ込めるようにシャッターを少し開けておいてくれて、逃げ込むと彼等はお風呂を用意してくれて、塩素系の塗料で顔や手に火傷を負ったのを洗浄させてくれたり、食事を提供してくれたり、なかには闘争資金をカンパしてくれました。

しかし、その後、アーケードが機動隊との主戦場になると我々は投石や火炎瓶で機動隊に応戦するので、商店街の被害も甚大で、当初、我々に好意的だった彼等は我々を疫病神と思うようになっていきました。

夜、屋台で我々が一杯のラーメンやチャンポンを2人で分け合って食べていると、横にいた機動隊の連中が見かねて、奢ってくれることもありました。

顔写真を撮られて、それが九州全域の大学の学生課に回されたので、私の大学の学生課から呼び出され、詰問されることになり、退学処分の窮地に立たされることになったのです。
私の場合は珍しく体育系で学生運動をやっていたので、応援団を中心とした体育系の右翼連中30人のグループに大学近くの海岸に呼び出されてリンチを受けたこともありました。流石に空手部の連中は手を出しませんでしたが。

ところが、幸いにも、私は大学空手部で有力な選手と評価されていたこと、フランス語科の優秀な学生でもあったことから当時フランス語科の名誉教授S氏の力で、2度と学生運動はしないとの約束で、退学は免れたのです。

ただし、その頃も現在も私の主義は同じで、別に世に言う左翼思想ではなく、日本という独立国家の主権維持のために日米安保条約に反対した訳です。米国の傀儡政権に成り下がってはダメだというのが私の一貫した思想でした。
後に三島由紀夫の盾の会に加入したのも同じ思想だったからでした。

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