2009年度日本経営品質賞受賞報告会スピーチ (プラザ洞津) 2010年3月19日 ただいまご紹介いただきました、万協製薬株式会社の社長の松浦信男です。 本日は、年度末のお忙しい時期にも関わらず、なんと約300名もの方に集まっていただきました。パーティをあわせますと、のべ600名を越える参加を頂いています。本当に有り難うございます。高い席からではありますが、お礼申し上げます。また、本日はこのあと、午後6時から都ホテル津におきまして、三重県経営品質協議会10周年記念パーティアンド万協製薬株式会社創立50周年パーティが行われます。両方にご出席いただける皆様におかれましては、いまから午後8時までと長丁場でありますが、さまざまな興味深い仕掛けをご用意しています。どうぞリラックスして最後までお楽しみください。実は、私、今日は20年ぶりのライブ演奏もありますので、緊張しております。 では、本パートをはじめます。まずは、私の万協製薬株式会社を代表してのスピーチです。 このたびは、栄えある2009年度日本経営品質賞をいただきました。先月の2月25日に東京で表彰頂きました。こちらにあるのが表彰楯とトロフィーです。ついに三重県にこのトロフィーを持ってくることができました。 私は、経営品質が大好きです。ですので今回、この賞をいただけたことをとても光栄に思っています。また、このような協議会10周年記念の場でスピーチさせていただけることをとてもうれしいです。間違いなく、三重県経営品質協議会がなければ、今日の弊社の日本経営品質賞の受賞はあり得ませんでした。授賞式当日は、名誉総裁であられる三笠宮寛仁親王殿下の前でスピーチ出来、15年前の阪神大震災時の皇室のかたがたの様々なご助力にお礼をいえたことがとても嬉しかったです。震災で一晩中はぐれた家族を探して歩いた私が、みたものは、ふるさと神戸の地獄絵図でした。いまでもあの日のことはありありと思い出せます。大きくの人を亡くしたなかでしたが、幸いなことに私の家族は震災の翌日に無事見つかりました。震災当時は、すべてのインフラが破壊されてしまい、衣食住すべてに困る毎日でした。そんなとき、天皇陛下ご夫妻が、いち早く長田区の菅原市場の焼け跡に来て頂き、私達を励まして頂きました。当時の総理大臣よりも早く長田にきてくれたのです。そのおかげで、政府からの救援物資が長田区にたくさん集まったおかげで、私も再度、がんばってみよう!と言う気になったのです。しかしながら、そのおかげで、会社の周りが激震再開発地区として2年間、新規工場建設の出来ない地区に指定されてしまいました。その他、さまざまな不幸が重なり、私は万協製薬をやめようと思っていました。社員を全員解雇してたったひとりになって全壊した工場のかたずけをしていたある日、とても寒い日でしたので、工場のまえの蓮池小学校で、炊き出しの「あじせんラーメン」を食べました。当時は全国の人がボランティアに来てくれたのです。 震災のとき、何が困ったかと言えば、まずとても寒かったということです。先日震災15年の記念ドラマとしてNHKで「その街の子供」というのが、放送されました。神戸出身の佐藤絵里子と山本未来の出ていたものです。このドラマは私達が経験したあのときの「とてつもない寒さ」をすごくよく表現していました。当時はガス、水道、電気すべてのインフラがなくなってしまったものですから、暖かい食べ物に飢えていました。会社は社員がいてこそ、生きているものです。こんな簡単なことが、当時の私には解りませんでした。たったひとりで片づけても全然進みませんでした。あじせんラーメンがあまりにおいしかったので、もう一度列に並んで、もういっぱい食べようとしました。ようやくもらったプラスチックの椀を持って会社で、食べようと思いました。けれども壊れた会社の会社まで来たとき、なんだかとても惨めな気持ちになったんです。こんなことしていていいのか?と思って、手に持ったお椀を地面にたたきつけました。それから、しまっておいた会社のおいなりさんを駐車場にだして、自分の足でたたき壊しました。「これからは全部自分の力だけで生きてやる!」そう決めました。それでこの町にいちゃいけないと思ったんです。 まず、自分の知り合いを訪ねて、製品の再開に協力してもらおうと思い、大阪にいくことにしました。荷物をリュックにつめて、帽子をかぶり手には軍手をして、「さあやるぞ!神戸市民のやる気を見せてやる。」という気持ちで大阪に出ました。しかし梅田駅に降りたときに、私を待っていたのは、まったく震災を感じさせない人々の華やかな姿でした。本当にびっくりしました。そのあと、わたしがどうしたかというと、こっそり梅田駅のロッカーにリュックと軍手を隠しました。自分が「被災した人」とおもわれたくなくなったのです。あんな思いまでして神戸を出てきたのに、こんなに簡単に気持ちがかわってしまう自分が情けなかったです。そのあと一月してようやく会社の引受先が見つかり、大阪で再創業する事になりました。その会社の約8億円の債務の保証人になるのを条件にまた、その会社の経営者になることを条件に製品の製造を再開出来ることになりました。しかし、もと万協の社員で呼び戻すことができたのは、たった2人だけでした。1995年の3月の終わりのことです。大阪に引っ越しをする前に、もう一度だけ長田区にある会社を見ていこうと思いました。そのころはもう会社は取り壊されて、更地になっていました。会社の建物があった場所に行くと「こんなに小さかったのか?」というくらい狭い土地でした。会社の自分の机があった場所に立ってみてふと空を見上げました。そうするとほんとうにまっさおな青空が広がっていました。会社があったらこの空をこんな風に見えなかったんだと思いました。それからしばらくのあいだ、色んな場所にたって空を見上げました。ビートルズのリーダーだったジョン・レノンが生涯の伴侶となるオノヨーコに初めて出会った、エピソードがあります。1967年のある日、ジョンはヨーコの現代芸術の展覧会にいきました。すると部屋の中央に大きな梯子があって、天井から虫眼鏡がさがっていました。ジョンがその梯子を上っていくと、白い天井に何か小さく字が書いてあるんです。つり下がった虫眼鏡で、見てみると「イエス」と書いてあったんです。ジョンは、「もし、ノーとかひどい言葉がかいてあったらすぐに出ていこうと思っていた。」といっています。なにか、ジョンレノンの音楽は「天国のような明るい方向に向かっている」ように聞こえますね。彼の生き方もそうでした。私は自分もそうなりたいな、とそのときに思いました。それから西明石の自宅にもどって荷物をまとめ、鍵をかけ、一人で大阪行きの新快速電車に乗りました。いつのまにか春になっていたんです。流れていく景色を見ているうち、いろんな想いが押し寄せてきて、なぜだか涙が出てきました。そのとき私は、32歳でした。いい大人が電車の中で泣いているのです。こんな気持ち誰にも判ってもらえない、そう思いました。そんなとき、今の自分の思いを、架空の高校生の恋人達を主人公にして歌にしてみようと、思いついたのです。作ったうたは、ひまわりの道といいます。ですから、このうたは私のあの頃の分身です。あっという間にあれから15年がたち、初めて、このうたをあとで皆さんの前で唄うことになりました。私にとって一番大切な歌です。皆さんに、ひまわりの道を聞いていただける今日があって、本当によかった、そう思います。 さておかげさまで弊社は本年3月12日に創立50周年を迎えました。じつは、この前に10年前は創立40周年があったのですが、実は創立40周年は、震災からの脱却で「季節を忘れるほど、働いていました。」ので、みんながその日があったことさえ、忘れていました。大阪に移って1年が経って、事情があり今度は、また単独で会社を再建することになりました。私は三重県を選びました。おおくの場所に行きましたが三重県を選んだのは、三重県の人がわたしにとても優しくしてくれたからです。このことは、今も変わり ません。 1996年、再び再起をかけて三重県に私と妻と檜垣君の大学のクラスメートのたった3人で起業したのが今から14年前の5月のことです。それが、いまや授業員が100人ちかくになり、売り上げが三重県での業務再開当時の約50倍になりました。本当に、夢のようです。 弊社は、自社の事業を「メディカルスキンケアアウトソーシングソリューションサービス」と呼んでおります。これは、医薬品や化粧品のスキンケアの分野で、顧客の抱える問題を一緒に解決していこうとするコンサルティングセールスのことです。しかしながら、平たく言えばこれは、医薬品下請け加工業のことですね。 これは実は、震災の時に工場を失った「弊社の製品」を作ってくれる会社がなかったことから考えて、できたビジネスモデルなんです。 私は神戸の震災のすぐあと、万協製薬の実質的な経営者になりました。しかしながら事業再開のめどのつかない、いざこざのなかで、わたしは「全従業員解雇」という間違いをおかしてしまいました。そのこと自体は当時としては、会社にとっても、従業員にとっても、最もよい問題の解決法であったようにおもえましたが、同時にその決断が、永く私のこころを苦しめることになりました。 いまでも解雇を言い渡したときの、従業員の「ぽかんとした顔」をわすれることはできません。多分、一生忘れられないでしょう。 私はこの日以来ずっと、「会社って、何のためにあるのだろう?」「組織ってなんだろう?」「経営者は何のためにいるのだろう?」と考え続けてきました。 万協製薬の三重県での再生が成功した理由には、様々な要因があり、この短い時間では語り尽くせません。ぜひこの後続く、セッションで、可能な限りご説明したいです。どうぞ最後まで、おつきあいください。 ですから、従来、製造業の製品品質が「もの」としての製品を対象としたのに対し、弊社の品質は、あえて「人と組織」を対象としています。ですから、ここが、万協製薬と経営品質との接点となったわけです。 企業の最大のテーマは「永続」だという人がいます。本当でしょうか?皆さんは、本当にそう思いますか?長く続くことだけが、「企業の価値」だとは、私は思っていません。 むしろ、私は「老舗の経営」など目指すことは、経営者自身が、「自己中経営者」だとさえ、考えています。 日本で50年続く会社は1割以下ということですが、「どれだけ続いているか」より「今、あるべき姿」こそを語るべきだと思います。 会社は何のためにあるのでしょう?経済学の教科書は、「会社の目的は利潤の極大化」と書いてあります。しかし、これでは「動物以下」だと私は思います。動物は生きるために、他の生物を殺めますが、「生きる以上は殺めない」からです。「1円でも多く稼ぐ」会社の姿は、間違っています。本来のの人間のすがただとは、考えにくいです。では、会社の目的とはなんでしょう?私は、こう思います。会社の目的は「生計の手段」「社会との絆」そして「自己実現の場を与える存在」でありこれらの大半は、そこで働く社員のためのものです。 また、私達の「会社」の周りには「地域社会」があることを忘れてはいけません。 そう考えれば、「社員教育は、地域への最大のエンパワーメント」と考えられないでしょうか。 弊社の経営品質向上活動は、2003年度からはじまりました。この活動は、「顧客」「社員」「会社」の「等しい協働」が目標で、私達で、始めた経営革新活動でしたが、はやいものでもう足かけ7年になります。このあいだに弊社は、4回も経営品質賞をいただきました。 三重県の経営品質賞の奨励賞、優秀賞、と一歩ずつ歩いてきた道を今、愛おしく感じています。この経営品質向上活動は、一度組織づくりをあきらめていた私に、再び社員との「絆」をとりもどしてくれました。申請書の記述を通して、どんな想いも過去も従業員に伝えていきたいと思うようになりました。申請活動を通じて、「震災までの自社の歴史を社員に語れるようになったこと」、このことが一番うれしいことです。 2009年3月には、三重県経営品質賞「知事賞」、そして今年、2010年2月には日本経営品質賞と、1年に2つの経営革新賞を受賞する事が出来ました。 多くのかたから、お褒めの言葉を頂くのは、経営者として大変嬉しいことですが、一番嬉しいのは、 実は、これらの受賞を通じて、私達万協製薬の社員が「誇り」を持つようになったことが、一番嬉しいことです。 弊社社員の多くは「中途採用」ですが、彼らは、「万協製薬で自分のあるべき姿を見つけられた。」と言ってくれます。私達は、優しさと気づきあうことを大切にし、常に快活明朗な組織風土の形成に努めています。私が言いたいことは、「人生は、卒業した学校や初めて就職した会社では、決して決まらない!」ということです。 今日は、社員全員が参加してくれています。立ってみましょう!拍手ください。この賞は彼らのためのものです。日本経営品質賞を受賞することで、彼らが少しでも自分を誇らしく思ってくれれば、とてもうれしいことです。 私は以前、自分の三重県での事業を、「地震によって失ったものすべてへの復讐」と考えていた時期があります。阪神大震災で、神戸市民は6,500人近くの人が亡くなりました。わたしのふるさとである、兵庫,長田地区はとりわけたくさんの人が亡くなりました。また、生き残った人も15年のあいだに、多くのものを失い、生きる力をなくしていきました。 わたしはずっと「そんな神戸の人たち」の分まで、生きて行くつもりでした。苦しくても決して、あきらめない!と自分に言い聞かせてきました。神戸は離れましたが、三重の地で、むくわれない、彼らの人生を背負って生きて来たつもりです。 「世界中の人が、忘れても決して、わたしは忘れない!」そんな気持ちでした。 今年になって、震災15年の記念のさまざまな番組をみて、実に多くの人が、わたしと同じ気持ちであったことに、救いを感じました。「いつまでも、過去に生きている人間」のように、自分を考えていたからです。 しかしながら、わたしは、ずっと、社員には申し訳ない気持ちでした。 自分にとって、社員をそのような復讐につきあわせているという「すまなさ」がありました。しかし経営品質向上活動をつづけていくうちに、そのテーゼのひとつである「社会への貢献」という言葉から「彼らこそが、復讐に生きている呪われた私」を救ってくれた人たちだと解りました。ですから、彼らを地域社会のリーダーに育てていくことが弊社のもう一つのミッションであると思います。私の尊敬するピータードラッカーは「経営者に贈る5つの質問」という著書のなかで、こういっています。我々のミッションとはなにか? 我々の顧客は誰か? 顧客にとっての価値は何か? われわれにとっての成果は何か? われわれの計画は何か?と。このシンプルな問いかけの中に組織が成長する手段がある、と言っています。言い換えれば組織は全て人と社会をより良いものにするためだけに存在するべきであり、だからこそ、ミッションや目的や存在理由が必要なんだとおもいます。 成熟度が高いが高い企業もそうでない企業も、一般的には社長や経営幹部は自社の姿や戦略について雄弁に語ります。経営品質向上プログラムの評価は、戦略を実行しその結果から改善や学習に結びつける重要な要素に結びつける関するマネージメント能力の評価、言い換えれば「戦略を実現するためのPDCAの評価」です。従って「成熟度の本当の高さ」は、経営幹部の雄弁さではなく、現場にいる社員たちにこそ内在していると思います。今回の受賞はこのことが、具体的に証明出来たのではないかと思いますし、今日、これから彼らに確認いただければ、と思います。また、今日お配りしている要約版の活動報告書からも多くを学んでいただけると思います。 なにはともあれ、私達に企業活動を通じた、社会づくりという機会を与えてくれた経営品質工場活動に心からお礼をいいたいです。では、本当にありがとうございます!!この感動、一生忘れません。
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