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震災体験

私の1月17日
松浦 信男(弊社 社長)

私の尊敬する年輩の先生から先日、「体験というものは、出来るだけ早く書いておかない,と忘れてしまうよ。
貴方の体験が他の人の役に立つことがあるのでぜひ文章にしておきなさい。」と言われました。
製品の再出荷も無事終わったことですし、私の記憶をたどりながら「何かのお役に立てば」幸いに思います。
以下、神戸市街地図を参照し、お読みいただければと思います。
 
地震前日の1月16日は、私は夕方まで長田区の会社で仕事をしていました。
連休の間、出張をしていましたので、年末からやり残した仕事をかたずけたかったのです。
私は時々、会社に泊まって仕事をする事があり(落ちついて仕事が出来ますので)、16日もそうする予定だったのですが夕方より頭痛が起こり、午後6時過ぎに家に帰って休むことにしました。
車で帰る途中、須磨区板宿の洋服屋でス-ツを1着買いました。
神戸市西区王塚台の自宅には8時すぎに戻り、妻、子供(琴子 当時10カ月)と共に午後11時に就寝しました。

AM
妻子は4畳半の部屋にふとんをひいて眠り、私は隣の6畳の間のベッドで寝ました。
夜中に何度か目を覚ましました。地震のあった5時46分には私はすでに起き、ベッドの上に座っていました。天井のペンダントランプの小さなだいだい色の明かりがついていたのを覚えています。
その瞬間、とてつもない大きな振動が「ゴゴゴゴ」という音とともに私を襲いました。

ベッドの上に押し倒され身動き出来ませんでした。
とても激しい揺れで例えていうなら、メリ-ゴ-ランドに乗って空を見上げている感じでした。全然、揺れが、止まりません。
私は、声をあげました。
不思議なことに全ての動きがスロ-モ-ションで動いているようでした。天井のペンダントランプは引きちぎれんばかりに回りつづけています。私のベッドには子供用のベビ-ダンスとオ-ディオセットが床から180cmほどの高さで続いていました。
ベッドの足下には柵のついた子供用のベビ-ベッドが置いてありました。やがて180cmのベビ-ダンスが上下半分にわれ、足元の「ベビ-ベッド」に倒れました。

つづいて数十キロあるオ-ディオセットが揺れ始めました。「これが頭に落ちてくると、大変だ!」そう思っても体はベッドにおさえつけられ、全く動けません。
ベッドのうえで体がゆれるので背中の筋が猛烈に痛くなりました。

間もなくオ-ディオは私の頭のそばの床に落ちました。電気が消えました。「これで天井さえ落ちなければ死なずにすむ。」そのとき私は、何か冷静にそんなことを考えました。

しばらく(約1分)してようやく揺れがおさまりましたので、体の上に落ちた本をのけて、ベッドの上に座りました。
ベッドの高さがなければ落ちてきたオ-ディオセットの重さで頭が割れていたことでしょう。
私は、真っ暗な、なかでしばらく呆然としていました。

その時、遠くから、「のぶく-ん、のぶく-ん(私の名前が信男)」という妻の声が聞こえました。
ハッと私は我に返りタンスを乗り越え仕切りのふすまを壊してキッチンに入りました。
中身を合わせて100kgはあろうかと思われる冷蔵庫が50cmは移動し倒れていました。
止め金をつけて固定していた食器棚は45゜以上傾き、開き戸の扉から全ての食器が飛び出てコナゴナになっていました。

そののち後かたずけをした際に陶器の食器どうしがぶつかり合い、粉末になっているのを見つけました。
ミキサ-で撹拌したように本当に「粉」になっていました。(開き戸の食器だなは、だめです!)
もう一度妻が「琴子が、琴子が!」と叫びました。普段は片手で開けることの出来るふすまが全く動きません。
夢中で何度も引くうちにふすまは折れるように30cmくらい開きました。「どうした」と私が言うともう一度「琴子が」と言いました。

私の目には信じられないのですが、妻の姿が見えませんでした。
私はプラモデルを創ることを趣味にしていましたので部屋には100点以上の完成品を棚に飾ってあったのです。
その棚が全て床に落ち小山が出来ていました。子供になにかあったのかとドキッとしました。つぎの瞬間、琴子の泣き声が聞こえました。

「生きている!」そう思いました。

小山のなかから妻の手が出て、琴子がしっかりと抱かれていました。「私が抜け出せないから琴子を受け取って頂戴。」下から妻の声がして、私は娘を抱き取りました。1分程して妻が這いだしてきました。

次々と棚が落ちてくるので寝ていた娘を自分のそばによせて身体をまるくしてその中に娘をいれてかばっていたそうです。
そのため、小山が出来ていたのでした。32インチのTVがサイドボードから飛び出し、部屋の真ん中で落ちていました。
琴子が寝ていた布団の上です。子供のことですから動き回り、布団から出ていたことが助かった理由でした。

また、私と同じ部屋のベビーベットで寝ていたらおなじようにタンスの下敷きになっていたことでしょう。
とりあえず、3人ともケガがないことを確認しました。妻は外へ出たくないと言いましたが、私は外へ出ることを主張しました。
絶え間なく続く余震のなか妻を引っ張るようにして、外にでました。

1月17日は寒い日で小雪がチラついていました。災害のときの気候は本当に雰囲気を変えます。地震が冬でなければ、あのように悲惨にならなかったのではないかと思います。このときの「寒さ」は私がもう一度、自分の家で眠ることが出来るようになった4月まで続きました。部屋を出て1階まで降りマンションの前の道に出ると、同じ棟の人が次々に集まってきました。この時点では、まだ真っ暗です。毛布にくるんだ琴子を抱いて10分ほど回りの人と話をしながら立っていたのですが、あまりに寒くてしかたないので自動車(フェスティバ1300CC)のなかに行くことにしました。

自家用車がなく立っている人もいるので悪いとはおもったのですが、ぐったりしている琴子のことを考えるとそんなこと言っている場合じゃないと、考え直しました。
車に乗りエンジンをかけて、すぐラジオのスイッチをいれました。「震源は淡路島の北部、震度は5。」とのことでした。
神戸市 西区王塚台は明石海峡を望む高台にあり淡路島は目と鼻の先です。「すると震源のそばじゃないか!」

少しずつ青く色がついてきた空にまわりの姿が見えてきました。屋根の崩れている家もありましたが倒れている家は、見あたりませんでした。「震源地がここでこのくらいの被害だったら、たいしたことないんじゃないか。

実家(兵庫区)の瓦でも落ちているかなあ。」そう思い、集金日だったこともあってスーツを車にいれて、妻と琴子と一緒に神戸に向かって出発しました。当時、妻は万協製薬で経理部に所属しており、娘も勤務のあいだは市内の赤ちゃんホーム(神戸市が働く女性のために作った定員3名までの家庭保育所)に預かってもらっていたので、3人で会社のある神戸市長田区をめざし車をスタートさせました。

午前6時40分 このとき、まわりの人に告げずに出かけた事が、すべての間違いの始まりでした。
神戸市西区とはいっても実際には、お隣の明石市の北部にあり中心部までは30KMくらいあります。
車での移動の方法は2つあり、ひとつは国道2号線を東に走る方法、もうひとつは、第2神明道路から阪神高速道路を経由していく方法です。

私たちはいつも後者でしたのであたりまえのように、玉津インターチエンジに向かいました。乗り口はなぜか閉鎖されていて「点検とかしてるのかな?」といった感じでした。
まさか阪神高速があのようなかたちになっているとは、夢にも思いませんでした。私が高速道路の倒壊を知ったのはこの日の夜のことです。しかたなく2号線でいくことにしました。2号線に合流するあたりから車の数が増えはじめ、明石港に出たところで、1分間に10メートルといったくらいしか動かないようになりました。2号線は海岸線に沿うように走っており、明石海峡大橋と交差しています。

「こんなところにいたら津波に遭うんじゃないかしら。」妻が不安げにいいます。
海は何事もないように穏やかです。ラジオの、どのチャンネルをまわしても最初と同じ事でした。時刻は8時を過ぎ、ああこれで会社には間に合わないな(8時30分が始業)とわたしは思いました。会社がまさか、なくなっているなんて誰が考えるでしょうか。

垂水まで、きたときに自分たちが無事であることを知らせていない事に気がつき、公衆電話を探し掛けました。
なぜか兵庫区にある実家は呼出音はするけれども誰も出ません。
幸い奈良県にある妻の実家には無事を伝える事が出来ました。このころはまだ電話はつながりました。
まともに立っている家には。9時半を過ぎ塩屋まできた頃、フロントガラスに黒い煤のようなものが降り始めました。
こんなときに火なんかおこして、のんきな人もいるなあと、おもいました。
のんきは、私でした。

出発して3時間が経ち、琴子がグズグズ言い始めました。妻は家に戻ることをいいだしました。車も動かず琴子のミルクも11時までの分しかありません。私は悩みました

しばらく走って須磨浦を越えると神戸の中心部が見えます。明石大橋ができるくらいですから港湾設備とかがある中心部は、明石から神戸市内へと大きく内側にはいりこんでいるのです。

私達は、目を疑いました。中心部に黒い煙の帯が数千メートルの高さでのぼっています。
ニュースフィルムでみた原爆の映像のようです。フロントガラスに降る煤はあの煙だったのです。
「とんでもないことになっている!」神戸が燃えている!妻は即座に引き返すようにと、私に言いました。

私は正気を失いつつありました。動かない車のなかで妻と私の口論が続きました。市内にいくことは煙の帯のなかに入っていくのと同じです。

妻は一緒に戻って避難所へ行くこと(西行きの道路はガラ隙でした。)を主張しましたが、私は会社と実家に住む、両親と兄弟が気になって仕方がありません。私たちは、半ば、喧嘩をするようにして別れました。左手にスーツを持って車を降りようとする私に、妻は「あなたは、何もわかっていない!わたしや子供のことを考えられないの?!。」といいました。

私は無言で車を降りました。親が心配などとは、比べているようで言いたくなかったのです。
私たちはその後のことも連絡先も何も決めずに、わかれました。妻の運転するフェスティバがものすごい勢いで西に走り去りました。ああ、こんなときに喧嘩するなんてなあ、と情けなく思いました。
このときの別れが、そののちわたしたち一家に考えられない苦難をもたらすことになったのですが、それは、このときには知るすべもないことでした。

車を降りて歩くこと30分、JR須磨駅に近づくにつれて家が増えて来ました。
海岸線にあることから太平洋戦争の空襲でも燃えずに残った家が多く、そういった大半の家屋は、全壊というより崩壊していました。道路のアスファルトはいたるところで割れ都市ガスのたまらない臭いが国道にたちこめていました。

次第にこちらへ歩いてくる人と出会うようになりましたが映画でみた空襲のように荷物を持って一定方向に走っていくというのではなくばらばらに人が行き来しています。駅前は交差点の両側の家が激しい勢いで燃えていました。警察もでていましたが、立っているだけで消防車はきていなく、また、燃えさかる火事を誰も見ることなく黙々とあるいていました。誰も何もしません。今思えばシユールな光景でした。日本はいったいどうなってしまったのか!

国道2号線の道路はJRとの高架橋の手前で通行禁止になっていました。どうりで、車が動かなかった訳です。
「おかしい!震源から離れていくにしたがって、ひどいじゃないか!」私は足を速めました。
須磨区にはいりました。第二神明道路と阪神高速道路の境目の月見山のあたりの橋脚がまるでアメのようにグニャと45度位に曲がっていました。私が車で走ろうとしていた道路です。その下を通るとき思わずダッシュしました。

考えてみればバカな話しですが、そのときは真剣です。
やがて長田区に入りました。この頃になると、道路はいたるところで火事、建物の倒壊などで通れない道が増え、わたしは無意識のうちにJR神戸線の線路沿いの南側をあるいていました。鷹取駅のあたりはたいへんな被害だったのですが、このときはまだ通ることができたのです。

万協製薬のある長田区御屋敷通りは明治時代に神戸のメリケンにあった商館に勤めていた異国人の住居があったことからついた地名です。当時は、林田区と言っていたようですが、当時をしのぶ赤いレンガつくりの路地が万協製薬のそばに残っていました。

御屋敷通りにはいるため私は、3軒の家の屋根を乗り越えました。左手にもった濃紺のスーツが邪魔になりました。
妻の言葉が頭をよぎります。戦後、長田区は中小のケミカルシューズの工場が乱立しました。黒い煙の帯は数十もの工場から上がった炎だったのです。早朝のボイラー、ケミカルゴム、靴底張り付けのための溶剤、接着剤、これほど火事に弱い業種はありません。私は、燃えていない家の前で佇む人々をたくさん見ました。
そのときは、まさか生き埋めの家族がその下にいるなんて思いませんでした。
あまりにたくさんの人がそうしていたものですから。

会社は山陽電鉄 西代駅前にありました。近づいていくと屋上に立ててあるBANKYOのロゴマークの看板が目には入りました。
「あれ!だいじょうぶじゃーないかーー。」私は喜んで走りよりました。しかし、なんだか変です。すこし背が低いのです。

そして正面にまわって愕然としました。1階が無くなっていたのです。3階建ての社屋の1階部分が倒壊して、2階建てになっていたのです。裏に回ると社屋は駐車場の4台の車の上に乗り上げていました。製造工場は1階部分です。
生産再開は絶望的でした。  

その後、調べて、会社社屋全体が、「2メートル!」南に平行移動していたと、2メートルの移動のおかげで、製造設備の大半が修理可能であることが解ったのですがこの時は、そこまで考えられません。

私は、父になんて話そうか、思いました。
こうなっては、ますます実家が心配です。私は駐車場においてあった万協製薬の婦人用自転車のワイヤーキーを瓦礫に埋もれた工具箱のペンチで切って乗り兵庫区に向かいました。

万協と実家のイセヤ薬局は5KMの距離です。兵庫区も被害がひどく特に松本通り、上沢通りは火の海でした。
焼けている建物のそばを通るときは、炎だけでなく、突然倒れてくる場合があるので、その点を注意しなければいけません。
人間の目は驚くほど視点が低いこと、人間は急激に多くの距離を移動できないことが歯がゆいほど、よく解ります。
イセヤ薬局のある東山町は日本の商店街で作っている5商店街連合の一つに数えられている、商店街でも数少ない成功している商業組合です。「せめて、薬局だけでも、、、。」私は薬局のある通りのさくら銀行の角を曲がりました。

店舗は、私の立っている位置から遠近法で描いたように後方が限りなく地面に近づいていました。いえ、言い替えると家の後方が道路に落ちていたのです。店舗は万協と同じ形で1階が、潰れていました。その上に私の両親のいる実家がありました。
斜めに傾いて倒れた実家の前にぼんやりと兄(松浦裕一)が立っていました。
私は、「おとうさんと、おかあさんは!」と訪ねました。

PM 
兄は、「だいじょうぶや。」といいました。よくみると両親の寝室は商店街のアーケードの鉄骨に引っかかって倒れずに済んだのです。遠近法の訳は、こういうことだったのです。しかし、その潰れ方があまりに絵的だったのでイセヤ薬局の写真はその後、全国紙に何度も登場することになります。兄は密かにコレクションしています。

母が外に出るときに割れたガラスで足を切ったくらいで、家族には大事はありませんでしたが、製薬会社と薬局、家、私の父が40年かけたすべてが、一瞬に崩れさりました。

そうなってみて初めて、妻子のことが気になりました。午後1時20分ごろ電話しましたが、つながりません。この頃から実際、市内の電話はつながらなくなりました。

奈良県の妻の実家には何回かののちに、つながりました。妻からの連絡は入っていないといいます。私は、心配になり家に帰ることにしました。交通機関はすべて不通でしたので、私が万協から乗ってきた婦人用自転車で35KMを戻ることにしました。

道路はいたるところ陥没し、たびたび私は、自転車を押して歩かなければいけませんでした。
やがて、妻と別れた須磨浦のところまで来ました。須磨から明石までは海岸線を間近に見てサイクリングできる道路があります。
冬の陽はもうかげりを、みせはじめていました。変速機のついていない婦人用自転車では、あまりにスピードが出ません。
海はあくまでおだやかです。自転車の空気が十分入っていないので、スピードが出ません。
どんなにまどろっこしいことが、やわらかな冬の日差しのなかで続いたことでしょう。
私は万協製薬のことを考えていました。この先、どうなるんだろうか?もう一度、製薬の仕事ができるんだろうか。
そんなことばかり繰り返し考えていました。

家に着くと、出かけたときのままカギは架かっていませんでした。妻は戻っていません。
ちょうど1階の方がおられたので、妻子のことを尋ねました。朝から、一度も顔を見ていません、とのこと。

その方も今晩は近くの小学校の避難所に泊まるために荷物を取りにきたのだそうです。「避難所に行ったら、いるかもしれないよ。
たくさんいるから、わからなかったのかも知れないね。」余震は絶え間無く起こっていましたし電気、水道、ガスすべて使えないのですから、大勢でいられる避難所にいたいという気持ちはあたりまえのことです。

午後4時10分 西区王塚台の出合小学校には夜を迎える100名以上の人が避難していました。
区役所の職員が手書きの名簿を持っていましたので、見ましたが二人の名はありませんでした。一人一人順番に見て行きましたがやはり、妻と琴子はいませんでした。「なぜだ、遅くても1時には帰っているはずなのに。」車の渋滞なんだろうか?

自分が自転車で通った道は、渋滞なんかしていなかったのですが。私は、もう一度来た道を自転車で戻ってみることにしました。
西区は震源に近かったにもかかわらず、被害は少ないようでした。

信じられないことですが、営業しているパチンコ店があり、なかで遊んでいる人もいました。都市の災害とはこんなものです。
私は本屋のまえで妻の実家に電話をかけようとしましたが、どうしても市外局番が思い出せませんでした。その本屋もよくはやっていました。災害救助のための地図が売れていたというのでは、勿論ありません。

今度は道路の対向車線もよく見ながら、走りました。出発は、午後4時20分ごろです。途中、負傷者が国立明石病院に収容されていると聞いたのでいってみましたが、病院にはいませんでした。先ほど、帰った道と同じ2号線は東行きの市内方面のみが車の数珠繋ぎで、やはり西行きは渋滞していません。たった、35KMなのに車で何時間かかるというのでしょう。
道路沿いの交番の何カ所かで聞いてみましたが、大きな事故は報告されていないとのことです。

もう一度、長田にはいったのは午後8時ごろです。長田はとんでもないことになっていました。電気が供給されていないので見える「あかるさ」のすべてが火事でした。私は妻がもしかして、私のあとを追ってここにきたのではないかとおもい、万協の近くを探しました、いえ探したとはいえません。半分は逃げていたのですが。地震もこわいです。しかし、火事はもっと恐いのです。 
特に消してもらえない火事は!

2号線や御屋敷通りの前には何十台もの放水車が出ていましたが、消火作業をしている車を見つけることはできませんでした。
水が出ていないのです。川から水を取ろうとしていた車両もありましたが、うまくいっていませんでした。
あとできいたところでは、このとき150件以上の火事が同時に起こっていたそうです。私は朝と同じように家のまえでたたずむ人たちをたくさん見ました。今度は、私にもなにをしているのか解りました。どうしても、助けだせないのです。

人間というのは勝手な生き物です。私には、より妻子が心配になっただけでなにもできませんでした。崩れて、歩くのさえ危うい足元を照らす明かりの全てが、火事でした。よく見ると炎のなかに違う色の炎がところどころに見えました。

ガス管から漏れているガスが勢いよく燃えているのです。なんでこんなことになっているのかと思いました。
兵庫区と長田区、わたしがうまれて育った町はこのあと、もう1日燃えて形を変えてしまいました。

ふらふらになって実家のまえにたどり着いたのは午後10時ころです。どのように戻って来たのかも覚えていません。
実家はやはり道路の半分まで崩れ倒れこんでいました。たとえ崩れて道にはみ出していても誰にも踏まれたくない、そう思いそばにあったついたてを道に置きました。

両親と兄夫婦は10メートル離れた、いとこの家にいました。10畳の部屋に16人が集まっていました。わたしはそこで、はじめて今回の地震についてのテレビニュースを見ました。長田区の被害が詳しく報道されるようになったのは、このときから4日くらい経ってからです。
私はそこで今日はじめての食物を口にしました。おにぎりにおかずはチーズでした。
食事を取ると急に眠くなり2時間くらい眠りました。

AM
テレビで次々と報道される行方不明者の数の増加に、いてもたってもいられなくなって、いとこの家を出たのは18日の午前1時30分ごろです。
途中、万協製薬のちかくまでいきました。万協の建物は煙に隠れて燃えているのかいないのか解りませんでした。しかし私には、もうどうでもいいことでした。
帰る途中で、何度も、なぜ、あのとき一緒に帰ってやらなかったのかと後悔してなりませんでした。足はパンパンに腫れて自転車より歩いたほうが速いようでした。
昨日、妻と別れた処まで来ました。海は静かでなにごともないようでした。本当に地震なんかあったのだろうかと思えるほどです。

私は子供みたいに願をかけました。もし、帰って妻子が見つかったら、私は、どうなってもいいと。会社が無くなっても、二度と薬の仕事ができなくなってもいいから、と。
王塚台のマンションについたのは、5時20分くらいです。玄関に私が書き残したメモもそのままでした。誰もいませんでした。
夕方いった小学校にもう一度いきました。
みんな、毛布にくるまって眠っていました。体育館は信じられないほどに寒かったのです。ひとつひとつの毛布を見ましたが、妻も琴子も見つかりませんでした。夕方の職員は、今度はとても親切でした。何度もここで休んでいくようにと、私に勧めました。
小学校を出たわたしは、本当につかれていました。ただ、いくあてもなく、もう歩くだけでした。空は白みかけていました。

と、そのときです。妻のフェスティバが家から歩いて2分くらいのところでとまっているのを見つけました。
目を疑うとはこういうことを、いうのでしょう。
「生きているのに違いない!」私は確信しました。すぐそばに中学校がありました。
はやる心を押さえながら体育館の場所を聞いて、中にはいりました。
妻と琴子は入ってすぐのドアの近くの体育マットのうえで毛布にくるまって眠っていました。妻はすぐに目をさましました。
ドラマではこういったときヒシッと抱き合うのですが、現実は違いました。私が「ここは、寒いね。」というと妻は「うん。」
といいました。私たちはそれから握手をしました。
琴子はしあわせそうにねむっていました。

私に震災体験を文章にするように勧めた先生に、このことを話すと、「空襲のあとも同じだよ。みんな、ホケッとしちゃうんたよ。」と教えてくれました。

妻はやはり一度家に戻ったのですが、私が心配になり追いかけてきて、長田から帰れなかったそうで、午前2時ごろ戻ってみると指定の避難所がいっぱいだったので、家から離れた避難所にきたのだそうです。

私と私の運命を変えることになった、25時間は、このようにして終わり、始まりました。
私の体験談はこれでおしまいです。私が今回体験したことは、みなさんの町でもおなじことが起こる可能性があると思います。
人は自分でがんばるものですが、自分のことを同じく大切にしてくれる人がいることは、なによりまして、うれしいものです。
今回の震災教訓の最たることは、これにつきます。地震の前の準備より、もし地震が起こったらどうするか、心の危機管理が大切です。あとは、食べられるときに、しっかり食べるということです。

このあいだ、震災のため長い間閉まっていた老舗のうなぎやさんが営業再開したので妻と一緒に食べに行きました。
「ほこりだらけの町も君がいれば、素敵!」じゃなかった、 「鰻があれば、素敵!」です。
地震の前日に作ったスーツは、おととい私のもとに無事届きました。地震のあった次の日に崩れたビルから取り出し、仕立て直しをしたそうです。明日はスーツにあわせて、新しいシャツをおろそうと思います。
琴子は1歳になり立って歩くようになりました。
 
1995年6月 神戸は、着実に復興しつつあります。

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